「独裁」体制の問題-JBPRESS

2018年3月15日木曜日

意見 官僚 政治 歴史・文化

青鬼の面

JBPRESSの3/15(木) 6:15配信で、面白い論説がありました。

『なぜ独裁は悲劇的な結末を招くのだろうか。
その本質は人事の不公平にある。権力が牽制し合う場合、概ね人事は公平に行われる。あまりトップの身びいきが過ぎると、各方面から文句が上がる。
しかし、独裁政権では人事はトップの専権事項になってしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
独裁が長引くに連れて、独裁者に近いというだけで、それほど能力のない人物が枢要なポストに任命されるようになる。
なかには“ごますり“しか能がない人物もいるだろう』

という内容の、何故に独裁体制は悲劇的に崩壊するのかという分析です。

読んでいて、笑っちゃいました…
できれば声に出して笑いたかったのですが、周囲には、私が声を出して笑ったら、とうとう頭が変になったかと思いそうな人たちがおりましたので…
なんとか堪えました(^-^;

まあ、ワンマン経営の会社問題も連想してしまいましたね(^-^;
書かれた方もワンマン経営の問題を敷衍なさったのかもしれませんね。

あるいは、誰が首相になっても日本の政治は変わらないと揶揄される日本の政府と霞が関官僚の関係をイメージなさったのかもしれません。

ノースポールの蜜を吸う蜂
ノースポールの蜜を吸う蜂
現代で成功している大企業の組織論には、組織の運用は選ばれた少数の社員や役員が行い、その他大多数の従業員は、与えらえた職務を疑問を持たずに遂行するという基本的な考え方を持つものがあります。

これは、いわゆる、ボトムアップ機能を重視する日本的な組織論とは異なりますが、近年では、この日本的と言える組織論は、世界の大企業の中では主流ではないと思います。
(何故そうなったのかという理由には、今回は言及しません)

この組織論は、限りなく社会主義的発想に近づきます。
つまり、選ばれた一部の優秀な人々によって導かれる社会です…
まあ、宗教的な考え方と言えないこともないですね。

極端な言い方をしますと、国家・社会を導く人間は、優秀で、且つ、その能力があれば独りでも良いという発想です。

その独りに仕える人々の条件は、命令を的確に実行する能力をもつことであり、命令に対して疑問を持ち、代案を構築する能力をもつことではないのです。

従って、その独りが本当に優秀で、且つ、最善の方向に導く能力があるのかということが直接的な問題となります…
部下や取り巻き問題は、二次的三次的な問題です。

それで、その能力を誰がどのようにして判断するのでしょうか…
このことが導かれる大多数の者たちにとって明確ではない場合が問題なのですが、この問題も矛盾を孕みます…

それだけ優秀ではない大多数の庶民たちが指導者たる者の能力をどのようにして判断できるというのでしょうか?
まあ、指導者の能力がマジカルなものであれば、簡単かもしれませんが(^-^;

つまり、信仰的に選択することになります…
これが現実です。

しかし、それからが重要になります。

選ばれた指導者が作為・不作為で出す結果が見えてきます…見通しも含めて。
その結果が、指導される人々の意に反する場合に、人々は、どのような対応手段、あるいは、対抗手段を持てるかが問われます。

独裁の場合には、
その対応手段が私有化(人権化)されていないのです…
これが、独裁における基本的な問題です。

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